黄尚字伯、河南郡邔人也。
尚字伯河、南郡人也、少歴顯位、亦以政事稱。
――『後漢書』周舉伝
邔 侯國。有犁丘城。
黄尚は字を伯河といい、南郡邔の人で、若くして顕位を歴任し、その政事を称えられたそうです。
――『楚國先賢傳』
黄尚爲司隸、咸服也。
――郭仲産『南雍州記』
その黄尚は司隸校尉となったようです。就任の詳しい時期は不明ですが、尚書令の左雄と並んで称されていることから同時期ぐらいではないでしょうか(順帝の永建中?)。
陽嘉二年、有地動・山崩・火灾之異、公卿舉固對策、詔又特問當世之敝、爲政所宜。固對曰:……(略)……順帝覽其對、多所納用、即時出阿母還弟舍人、諸常侍悉叩頭謝罪、朝廷肅然。以固爲議郞。而阿母宦者疾固言直、因詐飛章以陷其罪、事從中下。大司農黄尚等請之於大將軍梁商、又僕射黄瓊救明固事、久乃得拜議郞。
――『後漢書』李固伝
陽嘉二年、罪に陥れられそうになった李固を大司農の黄尚らが救おうとしました。この頃には大司農になっていたようですね。左雄伝に大司農劉據の記述があるので(陽嘉元年頃?)、黄尚はその後任でしょうか。
十一月壬寅、司徒劉崎・司空孔扶免。乙巳、大司農南郡黄尚爲司徒、光祿勳河東王卓爲司空。
永和元年、灾異數見、省内惡之、詔召公・卿・中二千石・尚書詣顯親殿、問曰:「……(略)……。」羣臣議者多謂宜如詔旨、舉獨對曰:「……(略)……。」於是司徒黄尚・太常桓焉等七十人同舉議、帝從之。
――『後漢書』周舉伝
八月己未、司徒黄尚免。
陽嘉三年十一月に大司農から司徒となり、永和三年に罷免されたようです。任期は四年ほど。その後の消息は不明ですね。
沔水之左有騎城、周迴二里餘、高一丈六尺、即騎亭也。縣故楚邑也。秦以爲縣。漢高帝十二年、封黄極忠爲侯國。縣南有黄家墓、墓前有雙石闕、彫制甚工、俗謂之黄公闕。黄公名尚、爲漢司徒。
――『水經注』沔水中
前漢の初めに黄極忠(『史記』は極中に作る)なる人物が邔侯に封じられたようです。この人と黄尚との繋がりは定かではないですが、何らかの関係はありそうですね。侯に封じられた後に土地に根付いて豪族化したとすれば、南郡邔の黄氏が三公を輩出するほどの権勢を得たとしても不思議ではないでしょう。
黄承彦者、高爽開列、爲沔南名士、謂諸葛孔明曰:「聞君擇婦;身有醜女、黄頭黑色、而才堪相配。」孔明許、即載送之。時人以爲笑樂、鄕里爲之諺曰:「莫作孔明擇婦、正得阿承醜女。」
――『襄陽耆舊記』
諸葛亮の義父である黄承彦は沔南の名士です。この沔南の沔は沔水のことで、その南側にあたる地域を指すのでしょう。
楊慮、字威方、襄陽人。少有德行、爲沔南冠冕。
――『襄陽耆舊記』
廖化、本名淳、中廬人也、世爲沔南冠族。
――『襄陽耆舊記』
柤中、在上黄西界、去襄陽一百五十里。魏時、夷王梅敷兄弟三人部曲萬餘家屯此。分布在中廬・宜城西山、鄢・沔二谷中。土地平敞、宜桑麻、有水陸良田。沔南之膏腴沃壤、謂之柤中。
――『襄陽耆舊記』
同じ『襄陽耆舊記』には襄陽(県)の楊慮や中廬の廖化が沔南の名族だとされています。宜城を含むこれらの県は魏晉以降襄陽郡に属しており、沔南とはイコール襄陽郡のことなのでしょう。だとすれば黄承彦も襄陽郡の出身と考えるのが自然でしょう。 南郡邔は襄陽県の南、宜城の北に位置し、魏晉以降は襄陽郡に属しています。 沔南の名士という黄承彦はこの南郡邔の黄氏ではないでしょうか。
三公を輩出するほどの名族であればそのように称されても不思議ではないですね。
三公を輩出するほどの名族なら劉表政権とも何らかの関係があってもおかしくはないですね。