典軍校尉曹操の失敗と秦邵の死

 

魏書曰:以忠篤有才智、爲太祖所親信。初平中、太祖興義兵、募徒衆、從太祖周旋。時豫州刺史欲害太祖、太祖避之而獨遇害。

      ーー『三國志』曹真伝引王沈『魏書』

 

『魏書』によると曹真の父親の曹邵は初平中に豫州刺史黄琬に殺害されました。

 

(九月)甲午、豫州黄琬爲司徒。

             ——『後漢書』獻帝紀

 

しかし、黄琬は永漢元年(189)の九月に司徒に遷っており、『魏書』の記述には矛盾があります。

 

太祖起兵、募徒衆、爲州郡所殺。

             ——『三國志』曹真伝

 

ゆえに陳壽は黄琬の名を出さない形で記述しています。ですが実際には豫州刺史黄琬の方が正しく、初平中の出来事とするのが間違っているのではないでしょうか。

 

靈帝政化衰缺、四方兵寇、以爲刺史威輕、既不能禁、且用非其人、輒增暴亂、乃建議改置牧伯、鎭安方夏、清選重臣、以居其任。乃陰求爲交阯、以避時難。議未即行、會益州刺史郗儉在政煩擾、謠言遠聞、而并州刺史張懿涼州刺史耿鄙並爲寇賊所害、故議得用。出爲監軍使者、領益州牧、 太僕黄琬豫州牧、宗正劉虞爲幽州牧、皆以本秩居職。

             一一『後漢書』劉焉傳

 

劉焉伝によれば黄琬が豫州牧(刺史)となるのは劉焉・劉虞と同じ時期です。もっとも、まったく同じかは不明。ただ劉焉の建議は并州刺史張懿の死に触れていることから、中平五年三月以降の話。なので就任はそれ以降になります。

 

頃之、遷右扶風、歴九卿、徵爲豫州牧。値黄巾陸梁、民物凋弊、延納豪俊、整勒戎馬、威聲甚震。是時上遣下軍校尉鮑鴻征葛陂賊、因軍徵發、欲盜官物、贓過千萬。乃紏奏其姦、論如法。

        一一袁宏『後漢紀』孝獻皇帝紀27

 

また『後漢紀』には汝南葛陂の黄巾賊の討伐のために派遣された下軍校尉鮑鴻を、豫州牧黄琬が横領の罪で告発しています。この鮑鴻の派遣は中平五年十一月のことで、翌年の四月に獄死していることから、少なくともこの頃までに黄琬は豫州刺史となっていたのは確実です。

 

金城邊章韓遂殺刺史郡守以叛、衆十餘萬、天下騷動。徴太祖爲典軍校尉。會靈帝崩、太子即位、太后臨朝。大將軍何進袁紹謀誅宦官、太后不聽。乃召董卓、欲以脅太后未至而見殺。到、廢帝弘農王而立獻帝、京都大亂。太祖爲驍騎校尉、欲與計事。

             一一『三國志武帝

 

一方の曹操は故郷にて隠棲していたが、靈帝の西園八校尉の設置に伴って典軍校尉となっています(中平五年八月)。そこから武帝紀の記述は、靈帝崩御・弘農王即位→何進殺害→獻帝即位となっていて、典軍校尉時代の事績が一切記されていません。あるいは特筆すべき出来事がなかったからかもしれませんが、本当にそうなのでしょうか?

 

英雄記云:靈帝末年、嘗在京師、後與曹公倶還沛國、募召合衆。會靈帝崩、天下大亂、亦起軍從討董卓

       一一『三國志』先主傳引『英雄記』

 

冒頭に靈帝の末年とあり、また「會靈帝崩」と繋がることから、前段は靈帝存命時の出来事だと思われます。劉備が京にいて曹操と一緒に沛国に帰ったとなると、それは曹操が典軍校尉であったと考えられます。沛は豫州に属していますから、それはつまり豫州刺史黄琬と曹操の間に接点があった可能性があることになります。『英雄記』での目的は衆を募ることで、これは『魏書』の記述と似通っています。

 

やはり『魏書』の「初平中」は「中平」の誤りと考えるべきではないでしょうか。

 

曹操別傳曰:拜典軍都尉、還譙・沛、士卒共叛、襲擊之。得脱身亡走、竄平河亭長舍、稱曹濟南處士。臥養足創八九日、謂亭長曰:「曹濟南雖敗、存亡未可知。公幸能以車牛相送、往還四五日、吾厚報公。」亭長乃以車牛送、未至譙數十里、騎求者多、開帷示之、皆大喜、始悟是

          一一太平御覽引『曹操別傳』

 

曹操は典軍都尉(校尉の誤りか?)に拝されると、譙・沛に還ったが、士卒が共に叛乱を起こしてこれに襲撃された。曹操は脱出して逃走すると、平河亭の亭長の屋敷に隠れ、曹濟南の処士(虎士?)と称した。臥せて足の傷を養生すること八九日、亭長に言った、「曹濟南は敗れたといってもその存亡はいまだ分からない。公が牛車で送ってくれたなら、往復で四五日だから、その分だけ私は手厚く公に報いましょう。」亭長はそこで牛車でもって曹操を送り、譙への道中数十里のところで、騎士の曹操を捜す者が多かったため、曹操は帷を開いて自らを誇示したところ、みな大いに喜んだため、そこで亭長はこの者が曹操であると悟った。

 

*日本語訳はテキトーです。

 

曹操別傳』でも典軍校尉時代に譙・沛に帰ったとあります。士卒が叛乱して曹操が負傷するような事態になったのであれば曹眞の父親が亡くなったとしても不思議ではないし、事態を収束させるために刺史の黄琬が関わることもありえるでしょう。前述のように同じ西園八校尉の鮑鴻を捕まえる権限を有しているのだから、曹操に対しても何らかのアクションを起こしたのかもしれません。ゆえに『魏書』では犯人扱いされたのでしょう。

 

 

靈帝末という時代は黄巾をはじめ様々な反乱が起こった時期でした。州牧や西園八校尉の設置はそれらに対処するためだったのでしょう。

 

上軍校尉蹇碩惡大將軍兵強、欲在外、因而間之。乃與常侍通謀說上、使進征邊章韓約。帝從之、𧶽戎車百乘、虎賁斧龯。亦知其謀、請中軍校尉袁紹東發徐・兗兵、以稽其行。

          一一『後漢紀』孝靈皇帝紀

 

何進もまた袁紹を派遣して兵を集めようとしています。これ自体は蹇碩の企みを回避するための方便ではありますが、実際に反乱に対処するための兵が必要だったのでしょう。しかし、曹操の募兵は失敗に終わってしまった。これは曹操の失態であるから『魏書』に記す必要のないものですが、曹真伝にとっては曹操のために死んだという事実は記さなければならない出来事。ただそのまま記したならば曹操の失態が明るみになるので、初平中と偽ったのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

司徒の黄尚と沔南の名士黄承彦

 

黄尚字伯、河南郡邔人也。 

        ――『後漢書』順帝紀陽嘉三年注

 

字伯河、南郡人也、少歴顯位、亦以政事稱。

             ――『後漢書』周舉伝

 

邔 侯國。有犁丘城。

       ――『後漢書』郡國志四・荊州南郡

 

黄尚は字を伯河といい、南郡邔の人で、若くして顕位を歴任し、その政事を称えられたそうです。

 

黄尚、字伯可、爲司隸校尉。諺曰:黄尚司隸、奸慝自弭;左雄尚書令、天下愼選舉。

              ――『楚國先賢傳』

 

黄尚司隸、咸服也。

            ――郭仲産『南雍州記』

 

その黄尚は司隸校尉となったようです。就任の詳しい時期は不明ですが、尚書令の左雄と並んで称されていることから同時期ぐらいではないでしょうか(順帝の永建中?)。

 

陽嘉二年、有地動・山崩・火灾之異、公卿舉對策、詔又特問當世之敝、爲政所宜。對曰:……(略)……順帝覽其對、多所納用、即時出阿母還弟舍人、諸常侍悉叩頭謝罪、朝廷肅然。以爲議郞。而阿母宦者疾言直、因詐飛章以陷其罪、事從中下。大司農黄尚等請之於大將軍梁商、又僕射黄瓊救明事、久乃得拜議郞。

             ――『後漢書』李固伝

 

陽嘉二年、罪に陥れられそうになった李固を大司農の黄尚らが救おうとしました。この頃には大司農になっていたようですね。左雄伝に大司農劉據の記述があるので(陽嘉元年頃?)、黄尚はその後任でしょうか。

 

十一月壬寅、司徒劉崎・司空孔扶免。乙巳、大司農南郡黄尚爲司徒、光祿勳河東王卓爲司空。

         ――『後漢書』順帝紀陽嘉三年

 

永和元年、灾異數見、省内惡之、詔召公・卿・中二千石・尚書詣顯親殿、問曰:「……(略)……。」羣臣議者多謂宜如詔旨、獨對曰:「……(略)……。」於是司徒黄尚・太常桓焉等七十人同議、帝從之。

             ――『後漢書』周舉伝

 

八月己未、司徒黄尚免。

         ――『後漢書』順帝紀永和三年

 

陽嘉三年十一月に大司農から司徒となり、永和三年に罷免されたようです。任期は四年ほど。その後の消息は不明ですね。

 

沔水之左有騎城、周迴二里餘、高一丈六尺、即騎亭也。縣故楚邑也。秦以爲縣。漢高帝十二年、封黄極忠爲侯國。縣南有黄家墓、墓前有雙石闕、彫制甚工、俗謂之黄公闕。黄公名、爲漢司徒。

             ――『水經注』沔水中

前漢の初めに黄極忠(『史記』は極中に作る)なる人物が邔侯に封じられたようです。この人と黄尚との繋がりは定かではないですが、何らかの関係はありそうですね。侯に封じられた後に土地に根付いて豪族化したとすれば、南郡邔の黄氏が三公を輩出するほどの権勢を得たとしても不思議ではないでしょう。

 

黄承彦者、高爽開列、爲沔南名士、謂諸葛孔明曰:「聞君擇婦;身有醜女、黄頭黑色、而才堪相配。」孔明許、即載送之。時人以爲笑樂、鄕里爲之諺曰:「莫作孔明擇婦、正得阿承醜女。」

              ――『襄陽耆舊記』

 

諸葛亮の義父である黄承彦は沔南の名士です。この沔南の沔は沔水のことで、その南側にあたる地域を指すのでしょう。

 

楊慮、字威方、襄陽人。少有德行、爲沔南冠冕。

              ――『襄陽耆舊記』

 

廖化、本名淳、中廬人也、世爲沔南冠族。

              ――『襄陽耆舊記』

 

柤中、在上黄西界、去襄陽一百五十里。魏時、夷王梅敷兄弟三人部曲萬餘家屯此。分布在中廬・宜城西山、鄢・沔二谷中。土地平敞、宜桑麻、有水陸良田。沔南之膏腴沃壤、謂之柤中。

              ――『襄陽耆舊記』

 

同じ『襄陽耆舊記』には襄陽(県)の楊慮や中廬の廖化が沔南の名族だとされています。宜城を含むこれらの県は魏晉以降襄陽郡に属しており、沔南とはイコール襄陽郡のことなのでしょう。だとすれば黄承彦も襄陽郡の出身と考えるのが自然でしょう。 南郡邔は襄陽県の南、宜城の北に位置し、魏晉以降は襄陽郡に属しています。 沔南の名士という黄承彦はこの南郡邔の黄氏ではないでしょうか。

 

三公を輩出するほどの名族であればそのように称されても不思議ではないですね。

 

 

三公を輩出するほどの名族なら劉表政権とも何らかの関係があってもおかしくはないですね。